―――ライフセービング。それは主に、水難救助などのボランティア活動を行う者の事を指し、
救助、蘇生、応急処置など、「一次救命処置」を行い、溺者の命を繋ぎとめる重要な役割を担う職業である。
そして、その行為を行う者のことをライフセーバーと呼ぶ。―――

※突き詰めて考えると、今回の話は根本からムジュンすることになってしまいますが、
そこはフィクション、ということで納得していただければ幸いです。
ちなみに、筆者はライフセイバーでもなんでもありません。


「…と、言うわけで、今日から見習いとしてここで働くことになった、えっと…。」
「三島、圭佑(ケースケ)です。よ、宜しくお願いします……。」

 ○月×日。…サマーシーズン到来。オレのライフセイバーとしての初めての出勤。とはいっても、経験ゼロのオレは見習い扱いなのだが。
それでも、こうやって自分のやりたいことに打ち込めるのはすごく嬉しいし、やりがいがある。

「まぁ、ケースケ君は見習いだから、当分の間、監視や指導の関係で、俺たちの先輩についててもらうから。…先輩、どうぞ。」
「…当分の間あなたのお世話をすることになった大村です。よろしくね。」
 オレの世話をすると言ってやってきたのは、結構歳のいったおばさんだった。
背はオレよりも少し高いぐらいで、他の先輩方と比べると低い方だったが、
それでも女性とは思えないほど腕や足の筋肉はがっちりしてて、いかにも泳ぎの得意そうな体つきだったし、声もよく通っていて厳しそう。
なるほど、ライフセイバー、ひいては人命救助を行う人間として多くの経験を積んでいるのだろう。オレは唐突にそう理解した。
「三島圭佑です、よろしくお願いします。」
 オレは少し遠慮気味に会釈をし、返事を返す。…もっと軽くいきたかったのだけれど、
なんとなくおばさんの気迫に気持ち負けしてしまった感があったからだ。オレのそんな態度が気に入らなかったのか、おばさんは、
「…あなたねぇ!なに?何よそのあいさつ!やる気あんの!?」
「す、すみません!」
「そうじゃないでしょう?『よろしくお願いします』じゃなくて、『宜しくお願い”致します”』でしょう?
それに『すみません』も違う!謝る時は『申し訳ございません』!
…まったく、最近の若い子は挨拶すらまともにできないの!?あぁ、もう、信じられないっ。先輩よ?先輩なのよ私。
あなたを指導する私の身にもなってもらえないかしら?…えっと、なんとか君。」
「ごめ……も、もうしわけございませんでした。」
 …最悪だった。初対面でいきなり挨拶を注意されるとは思わなかったし、何より俺の名前を覚えてもらえていない。

かくして、オレのライフセイバー(見習い)としての初仕事は幕を開けたのだが…。不安だ。この先の仕事がものすごく不安でしょうがない。


小説・あるライフセイバー見習いの日記


 ×月▲日。オレが見習いとしてライフセイバーの仕事を始めて10日ほど経過した。 ここに来てすぐのとき、まだ白かったオレの肌も、照りつける夏の太陽にさらされ続けて、少しづつ黒っぽく変わっていった。 肝心の仕事ではあるが、見習いゆえ大した仕事は割り振られないので、覚えるのも簡単である。  オレの行う仕事は大きく分けて二つ。一つは”タワー”と呼ばれた5mぐらいの高さの高台に登って決められた区間を見渡し、 溺者がいないかどうか、海で危ない真似をしている人はいないかを監視する仕事、 もう一つは交代で登ってきた人と交代し、浜辺のパトロール。 この二つを時間で交代し、交互に繰り返して、休憩中は休憩室で飯を食い、空いた時間はいざって時の救急訓練、 タワーや待機室に備え付けられている器具の説明を受けたり。あとはもっぱらトレーニング。 それでもやることがないと、たまに泳力を測る目的で泳いだりもする。  …ガキの頃からあこがれた職場だ。海を眺めりゃ自然と身が引き締まる。はずだったのだが………。 「ふああああああああ〜…あふぅ。」 「…ちょっと!三島君!あくびなんかしないの、みっともない!お客さんが見ているかもしれないじゃない!」 「ごめ…あっ、すっ、すみません!」 「また言った。すみませんじゃ、なくて?」 「『もうしわけございません』。………いてっ!!」  高台の上に登って、ただ延々と海を眺めているのは、体が引き締まる前に、目が疲れる。…というよりも著しく眠い。 風に揺れ波音を奏でる波が、楽しく遊ぶ人々のはしゃぎ声が、そんなオレの眠気に拍車をかけ、増進させてゆく。  その上、タワーの下に立ち、海水浴客ではなくこのオレを監視するオバサンが非常にうっとおしい。 眠気に負けてまぶたが落ちてくると、すかさず海辺に落ちている枯れ木の棒切れでオレのすねをぶっ叩く。 これが非常に痛くてしょうがない。この一撃で一瞬眠気が飛ぶが、すぐに眠気と言う名の荒波はオレの中で盛り返し、襲い来る。そして叩かれる。 何日か叩かれ続けて、俺の足、とりわけすね部分は若干赤く腫れたどころか、木の枝部分か何かがよく刺さるので、傷もできた。 …とはいえ、起きていたら起きていたで、服装の乱れとか、敬語にならない敬語についてねちっこく小言を言ってくる。 眠い。猛烈に眠い。全国各地の不眠症患者の皆さん。頼まれれば、いや頼まれなくても喜んで代わるよ。よく寝られることだけは保障する。 …とはいえ、オレもただすねを叩かれ続けているわけにはいかない。 ない知恵をしぼって、オバサンにすねを叩かれない方法を色々と考えて見る事にした。 当然、その中に寝ないで集中して海面を見続けるというものは入っていない。…さすがにそれはオレには敷居が高すぎるからだ。 「ふん、ふん、ふふ〜ん〜♪………いてッ!!」 「こら、三島君!仕事中に歌なんか歌って…仕事場を何だと思っているの!?なめるんじゃありません!」 「すみま…もうしわけありません。」 ×月●日。…歌を小声で口ずさんでみた。ただ海を見ているだけよりも大分眠気は晴れる。これはいい。 ………しかし、気づかれて叩かれた。オレのすねが悲鳴をあげる。 小声だったし、口だってあんまり動いてなかったのに、どうしてばれたんだろうか。…タワーの高さ、5mぐらいはあるってのに。 「…これを、こうして、こう………ぎゃうッ!!」 「三島君!なんど言ったら理解するの!?あなたがこのタワーに登って見るべきものは、 自分の手元でも夢でも妄想でもありません!この海でしょう!?何か危険な事が遭ってからじゃあ遅いのよ?」 「す、すみません…。でもオレ、まだ救急帯(※救護者が怪我をしていた際に患部に巻く手拭いのようなもの。 引っ張ればすぐに適当な大きさ、長さになるよう、少し特殊な折り方をして保管する。)がうまく巻けなくって、 少しでも早く出来るようになりたいと…痛ッ!」 「あなたの言うことは分かります。けど、そんな片手間で見張ってて、もし溺者の発見が遅れたらどう責任を取るつもり!? 見習いとはいえ、あなただってライフセーバーなのよ。もう少し分をわきまえなさい。いいわね?」 「は、はい…。」  …気に入らない、気に喰わない。オレの言うことなすことは全て否定して、自分のやり方を押し付けてきやがる。 オレだってずぶの素人ってわけじゃない。救急法の本で勉強してるし、学校の保健の先生に頼み込んで救護訓練用の模型人形を借り、 人口呼吸の訓練もやった。実践経験のない若造だとか、態度が気に入らないと怒られることはどうでもいい。 でも、『オレが今まで積んできた経験、修練』を否定されるのだけは納得がいかなかった。 …そんなことを考えていると、いつの間にかあのオバサンがタワー下にいないことに気が付いた。トイレだろうか。 いなくなったオバサンの代わりに気の良さそうな男性が立っている。 …あぁ、青木先輩、だっけか。先輩はオレが声をかけるよりも先に話しかけてきた。 「…沈んでるなぁケースケ君。あの人にそんなに絞られたか。」 「え。そんな…、オレ、別に。」 「そんなに暗い顔で別に、なんて言っても何の説得力もないぞ。無理するなよ。」 「…。」  どうやら今のオレの顔、先輩には何か悩みを抱えた暗い顔に見えているらしい。 本当はオバサンの横暴さに腹を立てていただけなのだが、 そう言われてしまってはオレもフォローのしようがないから、押し黙ってしまう他ないわけだ。 「よかったら相談に乗るぞ。ここはひとつ先輩らしく、な。」 「…。おば…あの人は?」 「あぁ、大村さんならトイレに行ってくるってよ。君には言ったと聞いているけど、知らなかったのかい?」 「いえっ、そんなことは。」  願ってもない機会だった。周囲を見回す。先輩のことを疑うつもりはないが、あのオバサンは本当にトイレに行ったらしい。 オレの予想もたまには当たるようだ、ちょっと嬉しい。…まあ、そんなことはどうでもいいのだが。 オレは自分の見える範囲を監視しながら、タワーの下にいる青木先輩に話を切り出す。 「…オレ、あのオバサン、嫌いっス。オレのやることなすこと全部無視して、自分のやり方ばかり押し付けて。」  それを聞いた青木先輩は、少し笑って返答してくれた。 「ははは。まあ、誰しも思うわなあ。そいつは。あぁやって細かくぐちぐち言われ続けて、好きになれる、って方がおかしいよな、普通は。」 「…へっ!?」  意外だった。てっきり自分の先輩であるオバサンを立てるような物言いが返ってくるものだと思っていたから。 オレはつい、海から目線をそらし、先輩の方に顔を向ける。 「せ、先輩でも、ですか!?…いてッ!」 「こらこら、監視員が向いていいのは海の方だけだ。」  驚き、つい体を先輩の方に向けたその時、先ほどまであのオバサンに叩かれていたのと同じように、青木先輩にすねをやられた。 叩かれた足のすねは痛かったが、なるほど、まったくもって正論だった。オレはすぐさま向き直る。 …しかし、不思議なものだ。あのオバサンに叩かれた時は痛みと一緒に怒りもこみあげたというのに、今はそれがない。 ひとえに、先輩の人柄によるものなんだろうな、と勝手に心の中で納得した。先輩は話を続ける。 「俺もさ、あの人には苦労させられてるよ。口うるさいし、冗談は通じないし。…それでもいざって時に一番頼りになるから、誰も文句を言わない。」 「なんで言わないんです!嫌なら嫌って言えばいいじゃないですか!」 「さっきも言ったろ。ここで一番頼りになるのも、一番権力持ってるのも大村さんだ。それに、そうは言うがね。 言いたいことをストレートに言っていいのは、子供だけ、だからね。」 「どういう意味ですか、それ。」 「言った通りの意味。大人の世界じゃそういうことは通用しないの。…さ、そろそろ交代しようか。 ずっとタワーの上にいて疲れたろう。その辺を見回ったら、日陰の方で休んでおいで。」 「は、はい。ありがとうございます。」  先輩の言葉に甘え、オレはゆっくりと腰を上げてタワーを降りようとした。が、降りる前に先輩に止められ、もう一度座り直す。 「待った。降りる前にやること、あるだろ。」 「…あ。そうでしたね。」  そういえば、そうだった。オレは隣に置いてあった赤いメガホンを手にとり、メガホンの先に目線を合わせ、 首から上と一緒に上下左右に動かして安全確認を行う。危険はない。先輩にその旨を伝えてタワーを降り、代わりに先輩がタワーに登る。 先輩は慣れた手つきでメガホンを動かして確認し、異常がないことをさっと確認する。 「よし、異常はないな。…おつかれさま。見回りが終わったら日陰で休んでおいで。」 「はい。ありがとうございます。」  オレは先輩に一礼して、海岸付近を見回りながら、休憩所のある小屋を目指して歩き出す。 …いざタワーを降りて砂浜を歩いてみると、思った以上に疲れていることに気が付いた。 足が重い。ほんの少し頭が痛い。のどがかわいた。水が欲しい。…そういえばあのオバサン、顔色ひとつ変えずにタワーの横に立ってたな。 このくそ暑い日差しの中で。…認めたくはないけど、すごいんだな、あのオバサン。 そんなことを考えていたときだったか。遠くの方でばしゃばしゃと水をかく音がする。 激しいが、音に強弱があり、何よりおぼつかない感じだ。…嫌な予感が脳裏をよぎり、ふと海の方に視線を移す。 …嫌な予感は的中した。  誰かが不規則にその太い腕をばたつかせて溺れている。遠いのと、波の加減で少し分かりにくかったが、 あまり若くなく、太った男であることはかろうじて確認できた。オレの脳神経、脳細胞が体じゅうに警鐘を鳴らし、行動を促す。 オレの取るべき行動はひとつだった。 「…ッ!青木先輩、溺者ですッ!…オレ、行きますッ!!」 「な、にッ!わかった、今すぐに…って、おい、待てッ!」  オレは周囲の監視員に緊急時を知らせる笛を吹き鳴らすと、着ていた白いシャツを脱ぎ捨てて海パン一丁で海に入った。 あのオバサンはトイレに行ってていないし、青木先輩のいる距離からじゃ、すぐに溺者の救助に向かうのは難しい。 ならば目線の先、直線上に溺者を見据えているこのオレが行くしかない。十分に筋の通る理屈だった。 …オレにそれだけの力と実績があったなら。  波の間をかいくぐり進む。泳ぎの早さには自信があった。浜から溺者までの距離は多少あったが、オレは40秒ぐらいで溺者を捉える。 「だ、だいじょうぶ…です、か…ッ!!な、なに…ッ!?」  オレが到着した頃には、男性はもがく力すらなくし、蒼い顔で意識を失いかけていた。 オレはすぐさま、右肩に溺者の頭を載せて後ろ向きに泳ぎ、岸に向かう。 …重い。それは助ける側の人間としての重責とは違う。ただ、単純に、純粋に重たいのだ。 人ひとり抱えて泳ぐだけでここまで違うものなのか。顔を上げて泳ぐ方法は何度もやった。救命用模型を抱えて泳ぐ自信もある。 やってることは訓練と同じはずだ。…ならば、この差は何だ?オレはなぜ、こんなにも疲れているのだろう。 首が痛い。足が重い。このまま一人で岸まで行ってしまいたい。…だが、そんなことが許されるはずがない。 たとえ見習いであったとしても、オレは今、人の命を文字通り自身の肩に抱えたライフセイバーなのだから。  普段なら50秒ぐらいで戻れるはずの距離を2分もかけて、オレはようやく岸に帰り着く。 息が上がって、体がだるい。このまま砂浜に寝っころがって休みたい。 当たり前だが、そんなことは溺者の前で許されることではない。  助けた男の右肩を叩いて意識を確認する。青い顔をして遠くを見つめているが、反応はない。 反応するだけの力も残っていないのだろうか。 オレは救急法の順番に従って気道を確保し、 始めてまじまじと男の顔を見た。なんというか…、これはひどい。 溺れて精神、肉体ともに弱っている、ということは考慮しているつもりだ。しかしまあ、それにしたって、ひどい。 こんな顔の人間に人工呼吸だなんて…、あの青木先輩だって二の足を踏みそう、そんな感じだった。オレは困惑した。 …しかし、このままにしておくわけにもいかない。こうしている間にも男の顔はどんどん蒼くなり、手足は冷え、硬直してゆく。 オレは男の胸元、肋骨と腹部の中間辺りにあるくぼんだ場所に、重心がちょうど真下に来るよう調整し、 肘をぴっと張り、左手と右手を重ねて置く。…オレは心臓マッサージを行うことにした。 「よし…ッ!せぇーっの…ッ!?」 「こらーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!」 「………!?う、げッ!!」  オレは息をすうっと吸って吐き、男の胸元に置いた両手に力を入れ……たはず、だった。 何故か一瞬、意識が飛んだのだ。気がつくと、オレは溺者から少し離れた場所で大の字になってぶっ倒れていた。 何が起きたかと、オレは辺りを見回す。 「…な、なに、が……あッ!」  オレの目の前には、あのオバサンが立っていた。いや、立っていただけではない。 あの人は今まさに、オレがしようとしていた蘇生活動を行っている。 何の戸惑いも躊躇もなく、オバサンはあの男の顔に口をつけ人工呼吸を行い、正確に、そして力強く心臓マッサージを行った。 オレはその素早く、何の無駄のない動きを見て、ただただ圧倒されてしまった。 それから数分のち。青木先輩が呼んだのだろうか、救急隊員が砂浜に到着し、溺者を担架に乗せて去っていった。 救急隊員は何度もオバサンに助かりました、とぺこぺこ頭を下げている姿が目に止まった。 …これは、それからずっと後に聞いた話だったのだが、あの男性は海水を吸いすぎて呼吸が停止しており、 素早く、そして正確な処置がなければ死んでいたかもしれない、とのことだった。  今更こんな事を思ってもどうしようもないことなのは分かっているが、 オレはその人の許可なく、その命を終わらせようとしていたという、殺人まがいの所業を行っていたことを痛感させられた。 しかも、「呼吸が停止し、助けを求めている人間の顔が気持ち悪い」という、至極くだらない理由で。  まぁ、この話は別の機会に話すとして、場面を戻すことにする。 救急車が海水浴場から出て行ったあと、オレは一人、熱く、じりじりとした砂浜で正座させられ、オバサンに激しく叱咤されることとなった。 「あなたねぇ!自分が今、何をしようとしていたか、わかっているの!?」 「なにって、その…心臓マッサージを」  オバサンはオレの頬をばしんと叩いた。痛みはあったが、正直な話、今はそれどころではなかった。 「そんなことはわかっています!何故、人工呼吸をせず、いきなり心臓マッサージを始めようとしたのかと聞いているの! あなた、溺者の顔を見たでしょう!口に海水をたっぷり含んで青ざめていて! あんな状態で心臓マッサージをして、もし意識を取り戻したら、どうなると思うの!? 意識を取り戻して、必死になって呼吸をしようとしても、吸って肺に取り込まれるのは海水ばかり、 溺れて意識をなくす以上の惨事になっていたかもしれなかったのよ!そんな事も分からないとでもいうの!?」 「な…ッ!!お、お、お、オレ……は。」  …知らな、かった?…いや、知っていた、はずだった。教本はページが黄色くなるほど読み返していた。頭の中に残っていないはずがない。 では、なぜそんなことも分からなかった?なぜ、あの時は一気に心臓マッサージをしようとした? 考えれば考えるほど、考えがまとまらない。そんなオレを見かねたオバサンは、ぴしゃりと、吐き捨てるように続ける。 「おおかた、ここに来てすぐに溺者を見つけて、一人で助けて、手柄を立てたかったとか、そんな事を考えていたんじゃないの? ふざけないで!あの溺者がどんな思いで救助を求めていたと思ってるの!?」 「ちがう!そんな……ことは……。」  オバサンの言葉が癪に障ったオレは、声を荒げてそれを否定した。しかし、オバサンの言ったそのことを完全に断定できない。 悔しいし、卑しいことだが、オレの心の中には、確かにそんな気持ちがあったのだろう。 だからこそ、”そんなことはない”と断定できず、ただただ、たどたどしく言葉を濁すことしかできない。 そんなオレの様子を見て、オバサンは呆れ、いや、もっとオレを蔑んだ目つきで威圧して、ため息混じりにこう言った。 「もういい!あなたの言い訳なんて聴きたくありません。 『やる気がないんなら、覚える気がないんなら、ライフセイバーやめてもらえないかしら。 はっきり言って、迷惑以外の何者でもないわ。』」 「…ッ!」  その言葉に込められた重みは、誰でもなくこのオレが知っていた。『やる気のないやつ』など、人命救助には必要ない。 もちろん、オレとて、決してふざけていたり、やる気がなかったわけじゃない。しかし、あんな姿を見られ、 オレの行いで溺者が死んでしまうかもしれなかったのだ。それはもはや何も出来ないに等しい。言い訳にもなりはしない。 今までうっとおしいとしか感じなかったオバサンの小言の一つ一つが、オレの心の中で鋭利な刃物となってぐさぐさと突き刺さる。 …オレはただ、小言一つ一つを聞き流して、砂浜に膝をつき自分の不甲斐なさ、情けなさに愕然としていた。 (※筆者注釈:近年では感染症防止の為、無理に人工呼吸を行わず心臓マッサージだけでもよいともされており、 むしろ、心臓マッサージだけのほうが生存率が高い、とも言われているそうです。 そうなるとケースケの行為でもよかったんじゃないか、とことになってしまいそうですが、 一応、この作品の根底にあるのが、私自身の体験による主観ですので、そういう解釈で納得していただけると幸いです。 納得できない、またはその他の方、いろいろと申し訳ございません。この場を借りて謝罪させていただきます。)
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〇月××日。…日記に手をつけるのは何日ぶりだろう。ようやく気持ちも落ち着いてきたが、さしあたって書くこともない。 当たり前か。何日も家の中にこもっていたのだから。  あの一件からどれくらい経っただろうか。オレはあのオバサンから謹慎と自主練を言い渡され、何日も外に出ていない。 …厳密に言えば、謹慎の期間はとっくに終わっていた。だが、あんな情けないことで、 溺者の命を危険に晒してしまったことへの不甲斐なさと未熟さ、何よりあのオバサンと顔を合わせるのが怖くて、海に行けないでいた。 「…っつても、ずっとこのまま、ってわけにはいかないよな。オレは、どうしたらいいんだろう…。」  オレは布団にくるまり、これからどうすればいいか考えてはみるものの、いい考えは何一つ浮かばない。 とんとんとん。玄関からノックの音が聞こえた。本来ならすぐに出るべきだったのだが、 今はそういう気分でもないのであえて無視する。…ま、何度か叩けば留守だと思って、自然といなくなるだろうし。 …しかし、5分ほど経ってもノックの音は止まらない。 こうなると、いい加減ノックの音がうっとおしくなってくる。叩いてダメならインターホンを鳴らせよ、と思ったが、 ほどなくしてウチにはインターホンは付いていないことに気がついた。…次に引っ越す時は、インターホンのある家に引っ越そう。そうしよう。 …なんて、どうでもいいことを考えながら無視しようと考えたのだが、やっぱりノックの音は止まらない。 流石に堪忍袋の緒が切れた。…オレは掛け布団を跳ね除けて、ベッドから玄関へと一直線に進み、勢いよくドアを開けて、 目の前にいる人物に、今のもやもやした気持ちと一緒に、執拗なノックへの怒りをぶつけ…、 「うるせ………うぼあ!」 「あ…、いきなり開くもんだから、つい……。」  勢いよくドアを開け放したせいか、オレはノックの主の拳を顔に喰らってしまった。そのまま大きくのけぞり、玄関にしりもちをつく。 「あぁあ、ごめんよ………。大丈夫、かい?」 「い、いえッ。オレ、頑丈なのが取り得みたいなものですから。こちらこそ、すみません。」  オレに裏拳のようなものを喰らわせた人物は、主に鼻の辺りを強く打ちつけ、 鼻を押さえてその場にしゃがみこむオレを見て、申し訳なさそうに謝る。 別にオレが悪いわけではないが、行きがかり上、オレもその人物に詫びを入れておいた。 「………ん?あな、た…は。」  オレは詫びを入れたその時、初めてその人物の顔をまじまじと見た。その人物の顔に見覚えがあって、オレは少し言葉を詰まらせる。 「景太朗…さん。」 「海水浴場の方に行ったら、君の知り合いの人に『半ば引きこもりみたいになってる』って聞いてね。心配になって来てみたんだ。」 「はぁ。…それは、どうも。」  景太朗さん。近所に住んでる二児の父親でいなせなヨットマン。オレの尊敬する人のひとり。 以前仕事の終わりに偶然知り合ってから、何度か仕事の悩みや愚痴を聞いてもらっていた。 「しっかし、何をしてるんだよ君は。…片意地張ってないで、そろそろ戻ったらどうなんだ?」 「えっと、それは…そのぅ。」 「煮え切らない返事だね。何か事情でもあるのかい?…っと、玄関のドアを開けて立ち話っての何だから、上がらせてもらってもいいかな?」 「あ、はい!気が利かなくてすみません。…正直、何のおもてなしも出来ないんですが。」  オレは景太朗さんを家の中に招き入れると、押入れの中にしまっていた座布団を取り出して座らせ、 台所の冷蔵庫からコーラを取り出してグラスに注ぎ、景太朗さんに出した。オレも景太朗さんもそれを腰に手をあて、ぐいっと飲み干す。 げえっ、と口の中からコーラの炭酸が漏れ出す。…少しだけもやもやっとした気持ちも一緒に出て行ったような感じがした。 景太朗さんは一呼吸置いて、オレに話を振ってくる。 「…じゃ、ま。聞かせてもらおうか。何でそう、君が片意地張ってるのかを、さ。」 「それはー………そのぅ。」 「大丈夫だ。ぼくの他には誰もいないし、君の仲間に告げ口する気もない。…ぼくを信じてくれよ。」 「う、うぅ。」  悩んでいる内容が内容なだけに、いくら聞き上手の景太朗さんだとはいえ、わけを話すのはいささか気が引けた。 だが、景太朗さんに”信じてくれ”とまで言われたとあっては、このままだんまりを決め込んで、そのまま帰すこともできない。 オレは少し息を吸い、吐くのと同時に、意を決して景太朗さんに今のオレの悩みをぶちまけた。 気に入らない上司のオバサンのこと。 調子付いて溺者を助けに行ったものの、もう少しで助けた溺者を殺しかけたこと。 オバサンに殴られ、自分の未熟さを思い知ったこと。 話が終わるころには、コーラを飲んで潤ったのどがまたからからになってしまった。 オレはさっきまでコーラの入っていたグラスに、水道水を入れてぐっと飲み干し、その渇きを癒す。  景太朗さんは、そんなオレの話をうん、うんと頷きながら聞いてくれていた。 てっきり、”人を守る職務に携わる人間が、人を殺しかけるとは何事だ”、ってな感じで殴られるかと思ったけれど、そんな事は全然ない。 オレがひととおり話し終えると、景太朗さんはオレの両肩に手をぽんと載せ、オレの目を真正面から見据え、こう言った。 「…この世にはかっこ悪いことが二つある。一つは、自分ひとりで何でも出来ると思って、人の言うことも聞かず勝手に突っ込むこと。 もう一つは、人に言えば解決するような問題を自分ひとりで飲み込んで、あげくひとりで勝手にダメになっていくこと。 たしかに、君は間違ってたのかもしれないね。そして、練習で大丈夫だったからと思って、調子にも乗っていた。」 「うぐ…ぅ。」  あのオバサンにも言われた事だが、まったくもってその通りだと思う。思わず景太朗さんの顔から目をそらしてしまった。 …頭を冷やして良く考えれば、練習で上手くいったからって、それがそのまま本番で通用するとは限らない。 そもそも、顔が嫌だから人工呼吸を行わないで、勝手に自己判断に頼るなんて、おこがましいにも程がある。 …カッコ悪いんだな、オレって。 「でも、さ。その人が無事だったのなら、君が間違いに気づけたのなら、それでいいんじゃないかな。」 「…え?」  悩んでいる途中で、不意に話題が切り替わり、オレは一瞬反応出来ず、間抜けな返事を景太朗さんに返してしまう。 景太朗さんは話を続けた。 「君の仕事は何だい?ここでただ、過去の過ちに囚われて、終わりのない自問自答を繰り返す自宅警備員か? 君の将来はどうなるかな。プライドを折られ、夢破れ、毎日を怠惰に過ごす辛気臭いフリーターかい?…違う、だろ。 君の夢は、そんな事で折れない、折れちゃいけないもの。…そうだろう。」 「……あ。」 「失敗して、めちゃくちゃ怒られて、へこんだり、辛かったりする気持ちはよく分かる。 だけど、そこで立ち止まっていてもいけない。反省したんなら、それを次に繋げて、前に前に進まなくちゃいけないんだ。 …君はもうそれでいいんだよ。悩む必要なんてない。失敗しない成功者なんていないんだから、さ。」 「……………。」  もっともな言葉だと思った。下手すりゃ都合のいい事ばかり並べ立てた詭弁にも聞こえるが、 それでも、落ち込んで、塞ぎこんでるオレからすれば、”一人で無駄に悩んでるよりかはずっとマシ”と思えるようになったから。 「景太朗さん…オレ」 「…まぁ、ぼくがそんなこと言わなくたって、君は自分自身でよく分かってるんじゃないかな?そのことは。」  景太朗さんは不意に、目線をオレの顔からベッド付近に移して、にやっと笑ってそう言った。 「じゃあ、ぼくはこの辺で失礼するよ。コーラ、ありがとう。」 「あ、い、いえッ。何のお構いもできないで。」 「いいよいいよ。君が元気でいただけで十分だ。それじゃ。」  景太朗さんはにこやかに笑ってウチを出て行った。なんだかオレの考えを見透かされているようで、ちょっとだけどきっとした。 色々と言われてふっきれた。…そうだ、海に行こう。行って、あのオバサンにきちんと謝ろう。 許してもらえるかは分からないけど、それでもこのまま、もやもやとした気持ちを抱えて、家の中でうじうじしてるよりかはずっといい。  オレは靴を履いて、久しぶりに外に出る。外の日差しがいつもよりもまぶしく、暑く感じる。 ドアに鍵をかけると、オレは駆け足で海へと向かった。
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「…大村さん、御疲れさまです。交代します。」 「あぁ、青木くんね。…分かりました。」   「あ、あのう、大村さん。…ケースケ君のこと、なんですけど。」 「今、確認中。…話しかけないで。」   「…異常なし。…三島くんが、どうかしたの?」 「はい。やっぱり、その。…大村さんからも何か、何か言葉があった方がいいと思うんですよ。 見習いっつっても、まだ子どもじゃないですか。なのに、あんな事を言ったら…。」 「”やめてしまうんじゃないか”って?だったらやめちゃえばいいじゃない。 技術ならまだしも、人を救う覚悟がないんじゃあ、いてもらっても困るだけ。私、何か間違ったこと言ってる?」 「いえっ、そんなことは。…でも、ストレートに言っちゃうってのは、どうかと。」 「いくらオプラートに包んで言葉を飾り立てたって、結局のところ、伝えるべき話題は一緒じゃない。 無駄に長いのって何であっても嫌いなのよね、私。 甘えさせて、だらだら長く引きずるぐらいなら、キツくてもスパッと言ってやった方がよっぽどためになるわ。」 「そ、そんな無茶苦茶な…。話し方一つで、ケースケ君も大村さんの見方を変えるんじゃないかと」 「あぁ、もう。うるさいわね。謹慎が解かれても来ないような子の話なんてしてても、時間の無駄よ。 …っていうか、確認も終わったんだから、私もそろそろ休憩に行きたいんだけれど。 あなたの質問のせいで無駄に過ぎた私の休憩時間、どう責任取ってくれるのかしら?」 「あ………、す、すみません、でした。」 「ふぅ。…余計なことは考えないで、ちゃんと見張っておくのよ、いいわね。」 「はい。 ……………………。」  …家を出て15分ほど。やっといつもの海水浴場にたどり着いた。久しぶりに走ると息が上がってしょうがない。…体力、落ちたんだな。 オバサンは………、いた。タワーの上で青木先輩となにやらもめている。 距離があるせいか、他の海水浴客でごったがえしているからなのか、二人ともオレがここに来ていることには気づいていないらしい。 …正直な話、本当はあのオバサンには会いたくない。今すぐ回れ右をして家に帰りたい。  こんなことを言うと恥ずかしくてみっともないが、心よりも先にオレの体があのオバサンに対して拒絶反応を示している。 オバサンの顔を見ただけで冷や汗が額にじわっとにじむ、足が心なしか震えている。 今日はこのまま帰ってしまおうか。外に出ようと思えただけ、それだけでも大きな進歩だ。 …いや、いや、何を考えているんだオレは!そんな弱気でどうする!反省して、前に進むって決めたんだろ! やってやる、やってやるさ。悪いことをしたら謝る。簡単なことじゃないか。 そんなことを考えていた最中、なにやら悪寒のようなものを感じて、ふと海の方が気になり、 オレは首を海側に向けて様子を見る。 「あ、あれは…。マジかよっ。」  オレの目線の先にいたのは、数日前オレが、いやあのオバサンが助けて一命をとりとめた男だった。 あれからだいぶ時間も経ったし、もう元気になったのたろう。あんなことになっても、まだ泳ぎたいと思うのか、とオレは呆れた。 オバサンたちは気づいているのだろうか。…さすがに気づいてないわけもない、か。一回事故った人だし。 その人の事はとりあえず無視し、オレはオバサンたちのもとに向かう。 「あ…ッ!」 「ん……!?で、で、で……溺者、確認ッ!!」  遠くからでも分かる。水を掻く手の音が変わった。先程感じた悪寒のわけを理解する。やっぱり、やっぱりか…。 オレは溺者を助けようと、砂浜を駆け、海に入ろうとする。 それは、タワーの上で海を見回していた青木先輩も同じようだった。メガホンで何か叫ぶと、さっとタワーを降りてゆく。 しかし、オレや青木先輩よりも先に海に入り、力強いクロールで溺者に近づくオバサンの姿を見た瞬間、 駆ける速度は一気に下がり、オレはその場に立ち止まる。青木先輩の方は、海に入るのをやめ、 タワーの近くに置かれていた救護用の道具を用意し、海辺で待機している。 「…そう、だよな。わざわざオレが行く必要なんてない。あのオバサンがいればあの人は助かる。 オレが無駄にでしゃばることでもない、か。…やっぱり、今日は帰ろう。」  オレは溺者やオバサンたちに背を向け、家に帰ることにする。 背を向けようとした瞬間、クロールの息継ぎの際、オバサンがこっちを向いてにやっと笑ったように見えた。 オレを馬鹿にしているのか、あざ笑っているのか。それとも、ふがいないオレに手本を見せよう、とでも言うのだろうか。 「………あ、あぁッ!!」 「…大村さんッ!?な、何が……!!」  その時だった。いきなり、力強く、軽快に水を掻いていた音が、ふっとかき消え、青木先輩の驚く声が聞こえた。 何が起きたかと再び振り返る。 …信じられない光景だった。今まさに、溺者を助けに海に入ったオバサンが、 足が攣ったのか、不恰好に、激しくばしゃばしゃと手で水を掻いている。 苦悶の表情を浮かべて水を掻く情けない姿は、その先で溺れ、救助を待っている溺者と同じように見えた。 青木先輩も、何が起こったかと大分焦っていたが、すぐにその状況を把握し、白いTシャツを脱ぎ捨て、海に入る。 おそらく、オバサンを助けるためなのだろう。 ……オバサンも、青木先輩も助けに来られない。他の人たちも、すぐにはあの溺者の元には向かえない。 視界の中に、オレの眼前に溺者の顔が映った。この前と同じような、苦しそうで、生きたいと、必死に助けを求める目。 …自分のしたことは悪いとは思っているし、面と向かって謝りたいとは思っている。 でも、このまま背を向けて、自分には関係ないとほおっておく方がずっと、ずぅっと悪い。それは誰が見ても明らかだった。 オレも相当馬鹿らしい。…また、2、3発は殴られるんだろうなぁ。 「…大村さん!大丈夫ですか!?」 「青木君ッ!何をしているの!何で私のところに…。」 「す、すみません。いきなり溺れたみたいだったので、つい。それに、口ではそうおっしゃってますけど、つらそう、ですよ?」 「謝っている暇があったら、溺者のもとに…え、ッ!?」 「どうかしましたか、大村さ…、あッ!……ケースケ君!」  疲れる。頭が痛い、いや重い。必死にバタ足をしているのに、進んでいる気がしない。 たった何日かでこれほどまでに落ちるもんなのか?体力って。 決めた。この人を無事に助け出せたら、毎朝、5kmのジョギングを義務付けよう。 バイトも…、引越しのやつみたいに、かなり体力を使う仕事をしよう。でないと、…耐えられない。 溺者をとらえ、オレの右肩に溺者の後頭部を載せる。肩越しに呼吸音を聞くが、呼吸音はおろか、意識もない。 オレはあの時と同じように、そのままの体勢で溺者をかつぎ、岸まで泳ぎきった。 岸に着いたときにはもう、大きく肩で呼吸せさるを得ず、激しい頭痛がオレの頭を襲った。 「はぁ、はぁ、はぁ……。」  息が上がる。めまいがして、乳酸が筋肉の中を、いや体の中を駆け巡ってるようだ。 人を助けてこんな調子じゃ、ライフセイバーの大会で即失格だわな。 そんなオレの目の前に、見るからにいらだってそうなオバサンと、それを支える青木先輩が現れた。 「三島君…あなたって人は!」  疲れとは別に嫌な感じが体の中を駆け巡る。すぐさまこの場から逃げ出したい気分だ。 だが、今オレがやるべきことは、それから逃げることでも、目を背けることでも、ましてや疲れでぶっ倒れることでもなかった。 「救急車と…AED(※ 心室細動((心室の筋肉が不規則に収縮する状態))を起こした人に取り付け、 電気ショックを与えて心臓の働きを取り戻すための救命機器)ッ、お願いします!」 「…な、なんですって!?」 「救急車とAED!お願いします!」 「ふざけないで!あなたなんかにこの場を任せておけるわけ」 「いいから、早くッ!」 「……ッ!」  この状況を飲み込めているのか、オバサンの顔が怒りとは別の感情で曇るのが分かった。 状況が状況だからか、オレもしめた、とか、ざまぁみろ、なんてことはまったく思わなかった。 オレは精一杯眼光を尖らせオバサンを威嚇し、行動を促す。が、オバサンの方もオレのことを信用していないのか、 無言のまま鋭い目つきでオレを見る。このままじゃらちが開かない。 …と、その時。こう着状態をどうにかしようと、青木先輩が声を上げた。 「大村さん!ここで待っていてください!俺、救急車呼んできます!」 「あっ!ちょ、ちょっと!」  青木さんはオバサンをそっと砂浜に下ろすと、走って電話のある詰所のほうまで走っていった。 オバサンはうっ、と痛みをこらえながら、砂浜に膝をつく。彼女はオレと溺者の間に手を伸ばし、救助作業の交代を促す。 「三島君!どきなさい、私が…………。」 「………オレが、やります!」 「バカ!あなたはひっこんでなさい!邪魔なの!」  それから先、オバサンがどんな罵詈雑言をオレに浴びせたのか、よく覚えていない。 オレはオバサンの言葉を無視し、膝をついて、呼吸の途絶えた溺者の顔を真上から見据える。 …前と同じ、いや、もしかすると前よりも酷い顔。青ざめて、鼻からだらだらと鼻水を垂らし、時々痙攣する体。 気持ち悪い。これが同じ人間の顔なのかよと、考えただけでもぞっとする。 しかし今日、そんな彼を岸まで運んで、分かった事が一つあった。 これは、必死にあがいて、もがいて、生にしがみつこうと努力している人間の顔なんだ。 羞恥心も見栄も捨てて、ただ生きるためにひたすらあがいて、もがいて。死への恐怖と戦っている人間の顔なんだ。 …それを気持ち悪い、嫌だ、オレが汚れると、突き放していい道理がどこにある。あるはずがない、あっていいはずがない。 あの時は、ごめんなさい。でも、だからこそ…、 「三島君!私にかわ……ッ!!」  オレは溺者の気道を確保すると、すーっと息を吸い、溺者の鼻をつまんで、唇と唇を合わせ、ふーっと吸い込んだ息を吹き込む。 ぷくーっ、と彼の肺が膨らみ、すぐにしぼんでゆく。オレはもう一度息を吹き込んだ。 ほんの、ほんの少しだけ、血色が良くなったように見えた。 それからすぐ、肋骨の中央付近のくぼんだ部分に、左手の掌の付け根部分を載せ、その上に右手も載せて、 ぐっ、ぐっと心臓を圧迫した。 「1,2,3,4,5,6,7,8,9,10!1,2,3,4,5,6,7,8,910!1,2,3,4,5,6,7,8,9,10!」  10回3セットをし終えると、もう一度鼻をつまんで口を押さえ、息を吹き込む。 吹き込んだ息で肺が膨らんだのを確認すると、また心臓マッサージに戻る。後はこの繰り返しだ。 横目で見ていたオバサンは、そんなオレの姿を見ても何も言わなかった。 足が痛くて近づけないのか、ちゃんとやれているからなのかはよく分からない。 ただ、必死に救助作業を繰り返していたせいで、何かしゃべっていても気づかなかったのかもしれないが。 5セット目の心臓マッサージが終わった辺りだろうか。鼻をつまみ、息を吹き込もうとしたその時、 溺者の口から、がはっ、がはっ、と口から水を吐き出すのが見えた。…息を吹き返したらしい。 そして、それと同時に、救急隊の人がタンカを持ってやってきた。さすがに都合がよすぎないかと邪推したが、 疲れと、溺者が助かったかどうか、という事だけが頭の中を駆け巡っていたので、すぐに気にならなくなった。 溺者をタンカに乗せ終えると、救急隊の一人がオレに話しかけてきた。 「……君が、彼に心肺蘇生をしてくれたのか?」 「……はい。」 「よくがんばったね。えらいぞ。後は私達に任せてくれ。」 「…………はい。」  救急隊の人はタンカを担いで砂浜を後にした。オレは砂浜に倒れこみ、横目でそれを見送る。 まだ患者が助かったどうかは分からない。もしかしたらこのまま帰らぬ人になるのかもしれない。 でも、オレはその言葉が聞けて嬉しかったと、心の底からそう思った。 …オレの意識は、そこで一旦途切れるとなる。
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「う、ぐ…っ!…こ、ここは……。」  激しい頭痛と共に目を覚まし、体を起こす。体にかけられていたタオルが床に落ちる。 頭上に壁があり、海水浴客にアナウンスをするための機械、見慣れたテーブルと古ぼけたソファ。いつもの詰所、その談話室のようだ。 窓から差し込む日差しもかなり弱くなっており、夕焼け色に染まっている。…あれから大分時間が経ったみたいだ。 あの後気を失い、そのまま詰所に運び込まれて介抱されてた、そんなところだろうか。 「…だれも、いない。仕事中…、か?」  オレは体を起こして、詰所を出ようと出入り口のドアノブに手をかける。しかし、オレがそのドアノブを回すよりも先に、 それはオレが回そうとした方向と逆に回り、内側にドアが開いた。オレは驚いて一歩飛び退く。 ドアの先には、あのオバサンが立っていた。 「三島君………。」 「あ、あ、そ、その……。」  言葉が出てこない。あの時は必死だったから気にならなかったが、そういえばオレはこの人を恐れているんだったか。 かきたくもない汗をかき、出そうとする言葉はのどから上に登ってこない。 だが、逃げる場所はどこにもないし、第一、伝えなければならないことがあるのに、怖くて逃げ出すなんてこと、オレは絶対にゴメンだ。 握りこぶしをぐっと握り、体の中に点在する勇気を一点に集めて、オレは目の前にいる人物に頭を下げ、話す。 「せ、せせ…先日は申し訳ありませんでした!オレがッ、オレが…あんな、つまらないことなんか気にしたばっかりに、 危うくあの人を殺しかけて、その…えと……。」  謝ることはできた。しかし、その先に続く言葉が頭の中から出てこない。考えても考えても同じ所を堂々巡りして、答えが出ないのだ。 そんなオレの様子を見かねてか、オバサンはふぅ、とため息をひとつすると、怒ってるんだか呆れているんだか分からない口調で言った。 「謝ることは、あの時のことばかりなのかしら?済んだことは済んだこと。今あなたが謝るべき事は、それじゃあないでしょう?」 「え…?じゃあ、何を?」 「何を?じゃないでしょう!今日のよ今日の!何!私の言うことを無視して勝手にCPRを始めて!隣で見てたわよ! 人工呼吸中に、口の脇からぷすぷす音がしていたわ!空気の入りが甘い証拠よ! それに手の置き所!胸骨の有効部位から結構ずれてたじゃない!よくあれで心臓マッサージができたものね!恥ずかしくないのかしら? 心臓マッサージ中だってそう!疲れてるのは分かるけど、力の強弱が激しすぎ!胸部圧迫は一定のリズムで、一定の力でって、 練習の時に何度も教えたでしょう!まったくもう、覚える気あるの!?」  オバサンは畳み掛けるように、オレの救助方法のダメ出しをする。 そう…だった。この人はこういう人だった、な。…弱みを見せたらすぐにこれだ。 それにしても、よくもまぁ、ここまで詳しく見てたもんだ。怒りや悔しさを通り越して尊敬に値するよ、その眼力。 「でも。でも、ね。……ま、助かったみたいだから、それはそれで良し、としましょうか、今日の所は。」 「…………ほへ?」  一通りオレへのダメ出しを言い終えた後、後ろを向いて、このひとこと。 …予想外、あまりにも予想外だった。ほめていた?今なんだか、ほめていなかったか?…いやいや、まさか、んなわけない。 でも、オレに悪口や悪態をついた感じでも、そんな言葉でもないことも、また事実。どういう風の吹き回しだ? まさか、足を攣ったときのショックで、脳神経のどこかに欠陥が……?いやぁ、ないない。 …と、そんなバカらしいことばかりが頭の中を駆け巡っていたせいか、さっき以上にどう反応してよいか分からず、 オレは「ほへっ」、と自然に漏れ出た、まったく意味く、抜けた一言以外、ちゃんとした言葉を発する事ができなかった。 「…な、何よ、その顔は。元気になったんなら、今日はもう家に帰りなさい。……明日からまた、ばりばり働けるようにね。」 「……………。」  オバサンはそれ以上オレに顔を向けぬまま、勢いよくドアを閉めて出て行ってしまった。 かろうじて、さっきの男性が助かった、という事ぐらいは理解できたが、あとは何がなんだか分からない。 だが、オレはとっさに立ち上がり、誰もいないドアの向こうに向かって、 「あ、あのぅ…、ありがとう、ございましたッ!!!」  ドアの向こうにいるオバサンに向かって、何故か深々と頭を下げ、礼をしていた。何でそんなことを仕様と思ったかは分からない。 毎回毎回いやらしくオレに悪態をつき、何かあると棒で俺の足を叩き、尊敬したい、となんて一度も思ったことはないのに。 いきなり褒めるオバサンもわけが分からなかったが、それ以上に、無意識に礼をするオレ自身も意味不明だった。 〇月××日(続き)。…頭を冷やして考えていたら、辺りは既に夜になっていた。空には霞みかかったおぼろ月が見える。 夕方、あの場所にいた時は、何でいきなり礼をしたのか全然分からなかったが、 今、落ち着いて考えてみると、その理由はおぼろげながら分かったような気がした。 怒られて、反省して、それを次に活かして、ほめられて。やっと『あの人たちの仲間になれたような気がした』、からだ。 まだまだ生半可な覚悟しかしていなくて、練習して、鍛えさえすれば、一人前になれるもんだと、本気でそう考えてた。 でも、現実は違う。場数を踏んで、これがどんなにも難しく、覚悟の重い仕事なのかを理解しなくてはならなかったんだ。 まだまだ半人前で、詳しい事はほとんど理解できていないけど、それでも、オバサンに褒められたあの時、 そんな本気で仕事をしている人たちの仲間になれた気がして、最高に嬉しかったんだと思う。 …がんばろう。あの人たちの迷惑にならないように、いつか、あの人たちよりも上手く人を助けられるように。
「…おしまい、みたい。」 「ケースケにーちゃん、今は何でも一人で出来るけど、昔は全然だめだったんだねー。」 「うん。なんだか意外、だよねー。」 「……あ、コメットさん!まだページが残ってるみたいだよ!」 「え?どれどれ?…なになに〜。」 ○月▲×日 …やっぱり、やっぱりダメだ!耐えられない!心と、あとはすねがとてつもなく痛くて、耐えられない! 前言、っていうか前ページの文章撤回!あのオバサンはゆるせねぇ! 仕返ししてやる!仕返ししてやる!何か、何かあのオバサンの弱みを見つけて…いつか、必ず仕返ししてやる! 「……。」 「……。」 「…………。」 「なんていうか、さ。」 「ケースケにーちゃんって。」 「…”こそく”、だよねー。」 「う、うぉおおおおおおおおおッ!!て、て、て…てめぇら!な、なに、人の家に勝手にあがりこんでんだァ!」 「あ、ケースケ。おかえりー。」 「おかえりー。」 「おかえりー、ケースケにーちゃん。」 「あぁ、ただいま…って、そうじゃねぇだろ!?なんで人の家に…!」 「何、って…。ケースケのお部屋のお掃除。景太朗パパや沙也加ママ、ここの管理人さんにも許可はもらってるよ。」 「何ィ!?いや、それ、順番おかしいだろ!なんで家主のオレに許可とんねーで掃除始めてるんだよ!」 「もう、うるさいなぁ。ごはんは食べっぱなしで、食器片付けないで、ゴミもその辺に置きっぱなし。 こんなに汚れてる場所に住んでて、何も思わないの?」 「そ、そりゃあ…、助かったとは思ってる、けど……、だからって!人の日記を勝手に読むなっての!」 「だって、おもむろに”よんでください!”って感じで、広げてあったんだもん…。ねぇ?ツヨシくん、ネネちゃん。」 「うん。」 「読んであげないと、日記さんがかわいそうだと思って……。」 「あぁ、もう!…帰れ!帰れよォお前ら!帰れ、帰れ、帰れッ!!」 ―――ほんとは、さ。そんなに辛く当たりたかったわけじゃ、ないんだ。 なんていうか、その。…日記の、読まれて一番恥ずかしい場所を読まれたのが、どうしようもなく恥ずかしかっただけで…。
なんというか、尻切れな終わり方でごめんなさい。これ以上にラストの持って行き方が思いつかなくて……。 最初の方にちょっとだけ書きましたが、ライフセイバーなんて仕事の人じゃないです私。よくてプール監視員。そのアルバイト。 一身上の都合でそれをやめたので、働いていた時に感じていたことを”大幅に脚色を加えて”書いたのがこれです。 海ではなくプールの事が主なんで、描写そのものが大分間違ってるかもしれませんね。 ”いやいや、これはねーだろ”と思うことがありましたら、掲示板か何かにでも指摘していただければ幸いです。 あと、試験的に地の文を廃し、ケースケの語りだけで話が進むようにしてみました。 自分で読むと読みにくくてしょうがないんですが、人からするとどうなんでしょうか。よく分かりません。 小説置き場に戻る
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